少子化はお金だけじゃない

久しぶりのブログ。見返してみればここで初めて書いたのは今年の5月。3ヶ月前だがだいぶ前のように感じる。

あの頃は本当に心が病んでいたんだろうなと思う。死にたいと思ってたな、amazarashiよく聴いてたなと振り返れるほどには元気になっている。

ただ、別にあれがしたいこれがしたいと心の底から思って生きているわけではない。

死にたいとかいらないことを考えるのをやめただけで、前向きに生きているわけではない、結局死ねないから生きてるだけ。ただ変わったのはどうせ生きるならってのでクソみたいな考えを捨てられたこと。

・若手だからやって当たり前みたいな雰囲気への反抗=間接的な業務を断る

 別に、若手だからやるっておかしいでしょ。やらなきゃ成長できない?その間接的な古いやり方今後もやるつもり?いつまでも新しいやり方なんかできないじゃん、それじゃあ

・「彼女欲しい」や誰かと何かをしたいがなくなった

 別に一人でなんでもできることに気づいてしまった。誰かの力を使わなければできないことは今のところ見つかってないし、仮にできそうになったら個人でできるように考える、またはサービスに対価を支払いやってもらう(引越しとか)

 

さて本題。

少子化の話になると、お金の話になりがち。

子育てにお金がかかるから、うちは子どもは1人までかな、、、とか

自分の場合、今の企業で順当にいけば子ども1人は育ててあげられると思っている(共働き前提にはなるが)

子どもを育てるとなると、ここも人によって考えが違うと思う。

高卒で働くとか、専門や大学に出てから社会に出るとか、進学で県外に出すとか出さないとか

育てるといえど、選択によってかかるお金が全然違う。県内で高卒でとかであれば子どもを多く産めるかもしれない。

自分の場合の子育ては実家から通わず一人暮らしをし大卒で働くパターンであり、それなら1人だろうという考えだ。

でもこれって結局親のエゴ。親が子どもに望む生き方ってだけ、生まれた子どもがどうしたいかなんてそうなるまでわからない、だから何にでも対応できるようそれなりの稼ぎが必要になる。

上みたいな考え方じゃそりゃみんなビビるって、子どもの将来も不安だけど、自分たちの生活も不安じゃん、どうなるかわからんし

まず何を言いたいかというと、子育てのスコープが違いすぎるし、リソースもどうなるかわからない。アジャイル的に考えれば、子ども(エンドユーザー)の要望に対応してあげられることだけどそれこそ親ガチャ、、、

結局お金の話かってなるからちょっとここまでにする。

 

ここからは親じゃなくて子ども目線の話をする。

自分自身こないだまで子ども(学生を終え、社会人になって大人になると定義)だったため一つの意見としてぜひ受け止めてほしい。

まず、子どもは親に気を使う。いつしか自分の家の経済的なことがわかってくる。本来のアジャイルならエンドユーザーは背景など考えず要望を伝えてくると思うが、子どもってのは親の顔色や経済的なことを考えて要望を出す。

言いたいこととして、昔もそうかもしれないが今の子どもは想像以上に大人であると言いたい。人生は早いうちに諦めるようになってしまっている。現にこないだ子どものなりたい職業ランキング一位が会社員になったことが物語っているように感じる。

 

今までの自分のブログを見てくれた人はわかると思うが、人生を楽しい・生きたいと前向きに捉えて私は生きていない。生まれてしまったから生きている。今の子ども達もそう思ってしまっている子がいるのではないだろうか、今後もっと増えるのではないだろうか。

少なくとも、自分はそんなことを感じながらこの世の中を生きてほしいとは思わない。

だから、お金どうこうじゃなくて子どもをこの世に誕生させたくない。今の世の中に生まれることが可哀想だと自分は感じるから。かといって、楽しい世の中を作ってあげることは自分にはできない、ごめんなさい。

 

もっと生きやすい、生まれてよかったと思える社会づくりが少子化への最善策である。

ご無沙汰

なんだか人が変わってしまったなと、ここのブログに帰ってきて思う

 

いろんなものに対して中途半端に希望を持っていた自分がいた

でも、今は希望を完全に断ち切った

自分でできることをやるだけ、そんな気持ちに切り替わった

 

嫌なことは嫌だとはっきり言うようになった

仮に嫌じゃなくても先に繋がらないことはやらないことにした

とことん他人に依存していたことがよくわかった

 

意図的に一人で過ごすようになったが全然一人でも生きていける

ただ生きていけるだけじゃなく自分の思うがままに生きられている

別に寂しいとも思わなくなった

むしろたまに会う友人の存在がうれしく思えるようになった

会う頻度が高いとそれが当たり前となり、感謝の気持ちがなくなっていく

久々に会う、それまで話のネタは蓄えておく、とても良い循環だと心地よく思えた

 

自分が絶対の正解だとは思っちゃいない。でも今の職場の人は間違っていると思う。

世間の常識、社会人として常識、それは本当の正解なのだろうか。

今までみんなが目を瞑って周りに同調していたクソみたいな雰囲気を続けることが本当の常識なのだろうか

多様性を歌うこの社会に反しているようにしか思えない。自分の信念を信じ戦っていこうかな、誰にとっても良い環境のために。

 

人生は暇つぶしっていうやつなんなん

生きている意味を見出せない私

高校時代と同じようなことを最近検索している

「なぜ生きる」

「生きる意味は」

「死にたい」

安楽死

当時の履歴なんか残っていないがきっと今と同じことを調べていた記憶が微かにある

検索結果は少し変わっている気がする

最近はすごいね、死にたいって調べたら電話番号が一番上に表示される

パパゲーノなんて聞いたことなかったね

調べると大体みんな思っていることが同じなんだなとも思う

死ねないから生きる

死にたいけど死ねないから生きる

 

人生は暇つぶしですから、好きに生きてくださいって書いてる人もいる

申し訳ないがそれができないからみんな苦しんでいるんだ

じゃあみんなが楽しく生きる方法なんかあるんだろうか

ないよ、常に誰かを見て、勝手に比較して、勝手に落ち込んで蹴落として

ネガティブにもなるだろうさそりゃ

 

人生は暇つぶしとかいうやつには言ってやりたい

殺してくれと

俺は暇つぶしをしたくて生きているんじゃない

じゃあどうしたいんだろうな

本当に自分がないんだろうな

誰かについていくのが楽なんだろうな

 

今ならテロリストの気持ちもわからなくはない

みんなが好きで生きていないならじゃあ終わらせてあげる

そういうことでしょ、偽善かもしれないけど

まあ望んでいない人もこの世にはいるからそういう人は巻き込んじゃいけないけどね

 

昔思ったことがある

火山口に核を流し込んだらどうなるのだろうかと

そんなことは知らなくてもいい、、絶対に起こる事のないフィクションの世界

逆説

生きたいから生きる

死ねないから生きる

同じ生きるでも大きく異なる

自分の現状がそのどちらかを分ける

自分は残念ながら後者だ

生きたい理由など無い

死ねないからただ生きるだけ

苦しい思いをしないように程々に生きるだけ

やっぱ死にたい

仕事って何なんだろうね

仕事に対するマイナスのイメージが多いのは学生の頃から知っていた

だから、自分はマイナスの感情を持って仕事をしないように仕事を選んだつもりだった

でも、暇で暇でやりがいもない

どうしてこうなった

自らを忙しくすることもできない

余計なことをするなと言われそうな、

というか

そもそもやりたいことがない感覚

どうすればいいんよ

仕事のモチベーションがなくなった

かといって転職する気にもなれない

他にやりたいことがないから

とにかく今は何もしたくない

はあぁぁぁぁ